算命学10分レッスン(番外編)思いやりの心
昨日東京の桜が満開になったようです。
土曜日に、千鳥が淵の夜桜を見に行きました。
大変な人出でしたが、日本語に混じって多くの中国語が聞こえてきましたが、靖国を問題視する国の人たちが、屈託無く靖国から千鳥が淵の桜を楽しんでいるのは何か違和感を感じますが、人間なんてこんなものでしょう。
話しがそれましたが、私は桜の季節になると、必ず思い出す俳句があります。
小林一茶の句だと思いますが、作者についてはうろ覚えです。
このわしも はばかりながら さくらです。
(この私も 憚り=葉ばかりながら 桜です)
花見客で賑わっている公園に、エアースポットのように人が居ない場所がありました。
見ると、そこには立派な桜の木が立っているのですが、花が咲いていません。
その木だけ、葉だけの葉桜だったのです。
花の咲かない桜など、花見をする人々には何の価値も無い木なのです。
これを見た俳人は、迷うことなくその桜の木の下に行き前出の俳句を読み、短冊にしてその木の枝に吊るしました。
すると、満開の桜の木の下で宴を開いていた人々が、その木の下に集まりどの木の下よりも賑わったいました。
この話しは、どんなものにも思いやりの心を持って接すれば、最悪な状態を最高の状態に出来るという教訓です。
算命学は、無情の学問と言われるように、非情な現実をそのまま表してしまいます。
しかし、それ(命式)を読み取る人には、常に思いやりの心を持ってことに当たることが必要なのです。
算命学を使って他人の鑑定をする場合、事実を曲げてはいけませんが、心は常にこのように有りたいものです。
2015-03-30 創喜