算命学10分レッスン(番外編)キトラ古墳その1

算命学を勉強中の皆さんへ。

東洋古代思想陰陽五行論は、日本の歴史の中に息づいています。

しかし、権威ある学者の皆さんは、知識はあるものの、人間をみることにこだわるあまり、自然を感じることができません。

自然を感じられなければ、人間の真実も分からないのですが、それに気付いていないのです。

歴史に自然を感じることができれば、自ずと歴史の真実が見えてきます。

それはともかく、この週末は少しのんびりと、私の小さな論文をお楽しみください。

1ページでは収まらなかったので、2部に分けて掲載します。

 

 

キトラ古墳、解明されたその命名の謎。

1、プロローグ

     春過ぎて 夏来るらし白妙の 衣干したり 天之香具山

 小倉百人一首でお馴染み、万葉集に収録されている持統天皇の和歌である。

 天皇の居所藤原宮から眺めた情景を詠ったもの、という解釈が一般的な研究者の定説となっている。

 しかし、息子の草壁皇子を皇位につけるため、ライバルの大津皇子を陥れ自害させた持統天皇である。

 その意味で希代の策略家であり、権力欲と同属意識の強い持統天皇の本当の思いをこの和歌から読み取る時、今だ謎に満ちた「キトラ古墳」の全貌が明らかになるのでる。

 キトラ古墳の名前は、地元の人たちが呼んでいた通称名を、そのまま古墳名とした、と明日香教育委員会発行の冊子には書かれている。

 壁画が発見され、名前が一般に知られるにつれ、日本語として少し奇異な感のある名前は、私の探究心を大いにかきたてた。

 そして、推古天皇が大陸から取り入れた、陰陽五行の思想(遁甲)との関係を探ってみることにした。

 なぜ推古天皇なのか、これには大きな訳があるが、後述する。

 私が行き着いたキトラ命名の仮説は、キトラは『己寅』という干支ではないかということだ。

 『己寅』という干支の意味を追求して行くと、キトラ古墳は死者を埋葬するために造られたお墓ではなく、あの世から蘇る人がこの世に出現する場所としての役割を持った場所だ、ということがわかる。

 キトラ古墳を造ったのは、持統天皇。

 そこに蘇ってくる(生き返る)と期待された人は、持統天皇が愛して止まない早折した草壁皇子だったのだ。

2、キトラとは、あの世とこの世を繋ぐ干支である

 推古天皇の頃、大陸から伝えられた陰陽五行思想(遁甲占い)は、歴史を勉強する人や易学を勉強する人には必須の知識だが、一般の人々で正確に五行の知識を持っている方は少ない。

 キトラ命名説を理解するためには、陰陽五行論のい知識があることが必須の条件なので、ここで説明することにする。

干支(ヱト) 

 ヱトと言えば普通の人は、動物の名前を思い浮かべるだろう。

 子とか丑とか寅などである。

 ちなみに今年(2014年)のヱトは甲午(きのえねうま)だが、一般的には単に午(うま)年と言われることが多い。

 しかし、本来のヱトは漢字で干支と書くように、陰陽五行論に基づく10干12支を組み合わせて作られた、干と支の組み合わせを言うのである。

 五行論によると、宇宙を形成する空間エネルギーは、木・火・土・金・水の五質(性)で、それぞれに陰と陽がある。

 空間のエネルギーは干と呼ばれ、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10個の漢字が当てられ、目に見えないにも関わらず記号化して目で見える存在としたのだ。

 時間を表す単位としては、木星が12年経つと地球から見て元の位置に戻ってくることから、12個の支が作られた。

 この支には、それぞれ子・丑・寅・・・・・と記号が当てられ、やはりこれまで目に見えなかった時間のエネルギーが目に見える形になった。

 そして、時間とともに空間を占有する人間の存在は、時間(12支)と空間(10干)を組み合わせることで、目で見えるように記号化できたのである。

 この干支の組み合わせが暦には60種類あるので、60年経って干支が元に戻ることを還暦(暦が還る)と言うのである。

 しかし、ここで少し可笑しなことに気付く。

 10干と12支を組み合わせたのだから、普通に考えれば10×12=120通りの干支が出来るはずが、実際の現実世界には60の干支しかない。

 この干支組み合わせの理論は、天中殺あるいは空亡という時間と空間(肉体)の構成理論で説明するしかない。

 つまり、10干12支を組み合わせると、

 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸

 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

 となり、最後の2つの支、戌と亥が、10干と組み合わさらない。

 しかし、時間だけが流れて空間が無いということは、現実として不自然なので、戌の上に甲、亥の上に乙と、10干を詰めて組み合わせて行かなければならない。

 すると、甲と乙は戌と亥にとって虚の空間から、空間(天中または空)が無い(殺または亡)時間帯とされ、天中殺とか空亡とか呼ばれる時間範囲となるのである。

 このような組み合わせ方であれば、干支は60しか出来ないので、理論的には納得せざるを得ないことになる。

 しかし、陽陰の観点から見ると、今私たちが現世で使っている干支(人間の記号化)は、陽は陽、陰は陰と組み合せのみとなり、陰と陽、陽と陰の組み合わせは存在しない。

 つまり、陽(+)×陽(+)=陽(+)、陰(-)×陰(-)=陽(+)、なのである。

 ところが、10干と12支を一つずらしで組み合わせると、

陽(+)×陰(-)=陰(-)、陰(-)×陽(+)=陰(-)となり、現世では存在しない干支が出来上がる。

 少し例を書くと、下記のような組み合わせの干支が出来上がるのだ。

 癸・甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸・甲

 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

 これら組み合わせの結果が陰になる干支は、あの世の干支(死後の干支)と言われ、これも60種類あり、現世の干支と併せて120種類の組み合わせができ、10干12支の組み合わせ理論と矛盾しないことになる。

 キトラ『己寅』という干支も、この陰と陽の組み合わせから出来たあの世の干支の中に含まれている。

 キトラ『己寅』をあの世の干支と考えた時に、どのような理論が成り立つか話しを前に進めてみよう。

3、己寅(つちのととら)の意味

 己は五行論では、陰の土質に分類される。

 土は、現世では自分の立つ足場(中央)としての意味を持ち、季節(時間)移り変わる狭間の土用とも言われる。

 『己』は干なので空間の記号であり、オノレとかコと読むが、普通キとは読まない。

 しかし、忌中はキチュウで、キと読んでいるように己はキと発音することが出来る。

 また、土質は天上界と地を繋ぐところで、代表例として辰(土質・中央)に象徴されるように、龍(辰)が天上界に駆け昇るという場所でもある。

 『寅』は時刻で言うと、早朝の4時頃、夏至の日の出の時刻を表す。

 方角は朝日が昇る東北東で、生命が生まれる象徴としての方位である。

 つまり、『己寅』はあの世の干支であるが、この世とを繋ぐ位置にある干支、つまりあの世からこの世に生まれ変わって来る場所を示す干支と考えられるのだ。

 寅の支の上に乗る陰干は、乙・丁・己・辛・癸と5つあるが、土質は己だけなのだ。

 生命の誕生(物事の始まり)の支『寅』と、天上界(あの世)をつなぐ干『己』との組み合わせは、『己寅』(キトラ)ただ1つだけなのだ。

4、誰が誰の生まれ変わりを望んだのか。

 今まで述べて来たように、キトラが誰かの生まれ変わりを期待して造られた古墳ならば、当然そこに埋葬された人の死骸はない。

 キトラ古墳も被葬者は不明、もしくは居ないのではないかと言われ、埋葬されているはずの死体が確認できていない。

 もしキトラ古墳が生まれ変わりの場所としての役割を担う場所ならば、生まれ変わる人の墓がこの場所の西方(西は肉体が滅びる=死ぬ場所)にあるはずである。

 そんなことを前提にマップ上を探してみると、キトラ古墳の丁度西方に位置する所に、岡宮天皇陵という古墳があった。。

 この天皇は歴史上の天皇として、実在しないため歴代天皇のリストでは見つけることができない。

 岡宮天皇とは誰なのか。

 実は、体が弱かったため皇位を継承しないままに、28才の若さで亡くなった持統天皇の長男、草壁皇子に死後与えられた称号であった。

 すなわち岡宮天皇とは追尊天皇であり、草壁皇子その人なのである。

 草壁皇子は、当初真弓の丘に葬られたのだが、追尊天皇として岡宮天皇の名を送られたときに、300メートル南の明神古墳に埋葬し直された可能性が高い。

 なぜなら、真弓の丘よりも明神古墳の方が、キトラ古墳のほぼ真西として妥当性があるからである。

 太陽は西に沈むが、あくる日には必ず東から昇ってくる。

 すなわち、草壁皇子が没した地(埋葬された地)が西方で、そこから見て東方の地より再生(生まれ変わる)するのである。

 草壁皇子の再生を願ったのは、持統天皇だったことは間違いないだろう。

5、和歌に込められた再生の願い。

 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干したり 天之香具山

 この和歌は、万葉集に掲載された持統天皇の詠んだものである。

 小倉百人一首にも選ばれているこの和歌は、

 『春が過ぎて夏がやってきたようだ。天之香具山に白い衣がほしてあるのが見えるから。』

 という、そのまんまの訳が一般的である。

 しかし、天武天皇の后ウノノササラ姫(持統天皇)は、息子草壁皇子の政敵、大津皇子に謀反の罪を着せ、自害させたほどの策略家である。

 言い換えれば、知的レベルが相当高い人なのだ。

 そんな持統天皇が、何の変哲も無い普通の情景に感動し、見たままを歌にするということは考え難い。

 和歌には、詠む人の思いや感動が込められている。

 というよりは、深い思いや感動の無いところに、和歌は生まれない。

 そういった観点から、持統天皇がこの和歌に込めた本当の思いを読み解いてみると、そこにあったのは、母としての持統天皇の息子に対する深い愛であった。

 まずこの和歌が詠まれた時期を特定してみよう。

 何の変哲も無い日常の風景に、心が反応していることを考えると、持統天皇の心の中には、何か琴線に触れるものが風景の中に隠されていたと思われる。

 その情景は、『衣干したり』という一句ではないか、と推察する。

 詳しくは、次に書く和歌の解釈のところで触れることにするが、和歌が詠まれた時期は、草壁皇子が亡くなった直後だったと考えられる。

つづく

2014-09-25 創喜