算命学10分レッスン(番外編)キトラ古墳その2

キトラ古墳その1からのつづき

では、和歌の意味を詳細に見て行こう。

春過ぎて

 春という季節は、芽吹きの季節である。

 万物が芽吹き、成長して行くこの時期は、人間に例えると幼年期から思春期に当たる。 

 『春過ぎて』は、生まれた子供が育まれ、思春期を経て、という意味で、次の句に繋がっている。

夏来にけらし

 夏は、盛りというイメージの季節である。

 人間に例えると、働き盛りの壮年期というイメージであるから、前の句と合わせて意味を取ると、

 思春期を過ぎて、立派な青年になったようだ、という意味になる。

白妙の

 白妙は、衣に掛かる枕詞であり、必ずしもその衣は白色とは限らない。

 ここでは単に、次の句『衣干したり』の衣に掛かる枕詞と考えて良い。

衣干したり

 衣は、『僧衣』という意味を持つ。

 その僧衣が干してあるのであるから、僧衣は着用されて洗濯されたのである。

 つまり、僧が葬式に着た衣が洗濯されて干してあるのである。

 今までの解釈では、天之香具山の麓に白い衣がほしてある、などと訳していたようだが、私は、『衣干したり』と次の句『天之香具山』とは関連性が無いと考える。

 それはさておき、持統天皇が日常的に見ている景色の中に、日常とは違う情景が見え、それが草壁皇子の葬式、すなわち死と結びついたために、持統天皇の心の琴線に触れたのであろう。

 草壁皇子の葬儀には、おびただしい僧が参加したはずであるから、おびただしい僧衣が干してある光景は、日常では無く非日常である。

 この1句にこそ持統天皇が、和歌を詠むに至った心の叫びが凝縮されていると考える。

天之香具山

 この句は、前句『衣干したり』と無関係である。

 大和三山のうち、香具山だけに『天』という冠があることの意味を考えれば、いかにも唐突に詠まれたと思える『天之香具山』こそが、持統天皇が草壁皇子を亡くした悲しみから立ち直るための希望の句であったことが分かる。

 日本書紀の神武天皇東征の項に、天の香具山の山頂の土を取り,ヒラデという器を作りヒモロゲを供え神祭りすると、敵を撃ち天下を取ることが出来る、という意味のことを書いた一説がある。

 神武はこの習慣を知らなかったようであるが、超古代の文献(ホツマツタヱには、『ツチトリという言葉』が国を治める君たる資質を具えている人を言い、そのことが天上の神に認められたことを意味する言葉で、「香具山の土を取った人物」を簡略化して言った言葉だったのである。(今村聰夫氏、検証ホツマツタヱ第74号)

 つまり、香具山の土を取ることを『土取り』と言い、その行為こそが天皇を継承するために必要なことだったのである。

 その証として、天之香具山の山頂には、日本の開祖である『クニトコタチ(国常命神)』が祀られており、大和三山のうち、この山だけに『天(アメまたはアマ)』が冠されているのである。

では、改めて持統天皇の和歌の翻訳を試みてみてみよう。

 『生まれ育って立派な大人になったと思ったら、死んでしまった私の息子草壁皇子よ。

 葬儀も終わり何事もなかったように、日常が戻っているけれども、あなたは決して死んだりしていない。

 皇位を継ぐために、天之香具山の土を取りに行っているのだから。』

 このように持統天皇は、天之香具山という一節に、期待と希望と母の愛を込めたのである。

 驚いたことに、この和歌には五行が全て含まれている。

 五行とは、人間が生きて行くために必要な宇宙の五元素で、木火土金水と言われるものだ。

 春は木。夏は火。秋は金。冬は水。そして中央は土。である。

 和歌に詠まれた春と夏は誰にでも分かるのだが、秋がどこにあるかは、少し分かり難い。

 五行論で西は秋を意味し、西を象徴する色は白である。

 すなわち、白妙という語の白は秋であり、西である。

 そして、冬は色で言うと黒、方位は北、つまり死後の世界である。

 衣干したりという句は、葬儀が終了し、草壁皇子が埋葬された死後の世界を暗示する句で、太陽地下に潜る暗黒の世界、北を意味していた。

 天之香具山の山は、五行では土を象徴する言葉として扱われていることから、香具山が土で間違いないだろう。

 つまり、中央を意味しているのである。

 これでこの和歌に詠みこまれた生命の源、木火土金水の五行(命の五元素)が解き明かされた。

 一見、何の変哲も無い夏の情景を詠んだと思われるこの和歌は、草壁皇子の再生を願い、和歌そのものに生命の伊吹を吹き込み、母の深い母性愛から生まれた悲しい和歌だったのだ。

6、キトラ古墳の壁画

 キトラ古墳の石室にいる書かれている四神の壁画には、一般的な四神の壁画と少し異なったところがある。

 それは、それぞれの四神が向いている方向である。

 南の壁面に描かれた朱雀、東の壁面に描かれた青竜、北の壁面に描かれた玄武には問題ないが、西の壁面に描かれた白虎が北を向いている。

 本来(普通なら)神の居る方向である南を向いて描かれるはずであるが、なぜか北を向いているのである。

 この答えは明確である。

 キトラ古墳が埋葬の墓ではなく、生まれ変わりのためのものということを考えれば、西に滅びた肉体が北を通り、東に生まれ変わって再生する輪廻転生の思想を、白虎の向きで表したのであろうと考えられる。

 時間の経過、つまり人間の行く先を四神の神それぞれが見つめているのである。

7、キトラ古墳の星宿図

 キトラ古墳の石棺の天板に描かれている星宿図は、本来の見え方より40度ほどずれているという。

 私は天文学には疎いので、一つの推論を提起しておくことにする。

 キトラ古墳辺り(奈良県明日香村)から見える星空は、緯度の関係で赤道から見た場合から35度位ずれている。

 このずれを向こう側、すなわち、天上界にあって星空を眼下に見た場合、どうなるのだろう。

 40度位ずれて見える、と古代人は考えたのではないだろうか。

 天文学に詳しい方の今後の研究で、謎が解けることを願うのみである。

 

 

8、もう一つのキトラ

 奈良県北葛城郡當麻町に、『キトラ山遺跡』がある。

 この遺跡(古墳?)はまだ発掘されていないので、考古学的に詳しいことは分かっていない。

 しかし、『キトラ』である。

 今まで述べてきたロジックを基に考えれば、その遺跡が誰かの再生の場所として、命名されたのだろうと考えられる。

 その理論の正しさを証明するには、草壁皇子の再生を願って造営されたキトラ古墳同様、西方に再生を期待される人物の墓が無ければならない。

 そこで、地図の上を真っ直ぐ西へ辿って行くと、驚愕する事実が判明した。

 推古天皇稜(大阪府南河内郡太子町)に突き当たったのである。

 北緯35.511の推古天皇稜のほぼ真東に、このキトラ山遺跡は位置しているのだ。

 推古天皇は、持統天皇より約80年前に崩御しているが、持統天皇と同じように、立太子でありながら、皇位を継承することなく夭折した竹田皇子という息子を持つ。

 ここで重要なことは、推古天皇は死後、息子竹田皇子と同じ墓に入ったということである。

 つまり、推古天皇稜は竹田皇子の陵墓でもあるのだ。

 私の考えでは、推古天皇の治世に百済より「遁甲」という占いが輸入され、その思想に基づいて推古天皇は、夭折した竹田皇子の再生のための場所を造営し、陰陽五行に鑑みその地をキトラ山と名付けたのではないか。

 その陰陽五行(遁甲=推古朝に伝来)による再生の思想は80年を経て、同じ境遇にあった持統天皇に受け継がれたのだ。

 推古天皇と竹田皇子。

 持統天皇と草壁皇子。

 どちらの墓の真東(太陽が昇り生命が芽吹く方向)にも、それぞれキトラと命名された地が存在する。

 これを単なる偶然、と考えるのは難しい。

 やはり『己寅』に行き着くのである。

 

最後に

 大阪府河内長野市にある『キトラ山』については、私の研究がまだ及んでいない。

 このキトラ山は、この周辺では最高峰の岩湧山の西にある。

 キトラ山から西に辿って行くと、標高575mの岩雄山があり、標高790mのキトラ山を東に望んでいる。

 この岩雄山に何か秘密があるのか、無いのか。

 私は現地調査をしていないので分からないが、地元の方ならキトラが太陽の昇る方向、再生(生まれ変われる)の方向として、キトラを東に見る地域に何か心当たりがあるのかもと考える。

 キトラ山を真東に望む場所に、大きな集落があったのかも知れない。

 キトラ山には遺跡は無いようなので、単に場所として特別な意味をもつとしたら、西にその主体があると考えられる。

 また、キトラの命名は、遁甲が伝わった後であるはずなので、このキトラ山も7世紀以降に命名されたと考えるのが妥当である。

 キトラを『己寅』と証明する意味でも、キトラ山の西に何があったのかをいつか調査してみたいものだ。

 この他、四国の香川県にも『キトラ湖』という地名があることも記しておく。

2014-09-25 創喜