算命学10分レッスン(501日目)実践偏

算命学10分レッスン(501日目)実践偏

 

先ほど近所の本屋さんに行ってきました。

頼んでおいた伊丹十三さんの著書が届いたので、引き取るためです。

彼の著書は、なかなか見識が高く読んで面白いものが多いのです。

 

その本屋さんにも、占い本のコーナーがあり、幸せの安売りをしていました。

なかなか刺激的な副題を付けているものもありました。

「幸福になりたくない人は見ないでください」

「幸福になりたい人だけ見てください」

ほとんど幸せ詐欺のような題名です。

それとも、遊び心の本なのでしょうか。

 

『幸せ』の定義ってなに?

世の中に幸せになりたくない人なんていません。

しかし、幸せが何か分からないから迷っているのです。

占いの本を書いている自称占い師の人たちは、自分の価値観あるいは社会的な価値観の達成具合で幸不幸を論じているのではないでしょうか。

つまり、人は世俗的な欲望の達成を以って幸せだとする思想です。

このような幸せ論では、一人一人が幸せを達成することなど不可能です。

 

私がこのブログを通じて、口をすっぱくしてお伝えしていること、それは幸せとは『不幸にならないこと』だということです。

不幸にならないということは、自分らしく生きるということです。

自分らしく生きるということは、自然(宇宙)から与えられた宿命(エネルギー)通りに生きるということです。

もちろん、後天的に巡ってくる環境というエネルギーも含めての話しです。

 

ここを間違えないでください。

算命学は、与えられた自然のエネルギーと後天的に廻ってくる環境エネルギーを正確に捉え、社会の制約や習慣などの疎外要因と折り合いを付けて行く学問です。

いわゆる幸福を押し売りする占いではないのです。

 

神戸の号泣県議野々村某氏は、県議に当選して幸せになりましたか。

当選当事は一見幸せの頂点だったように見えますが、実際は不幸の入り口だったことは、ことの顛末で明らかです。

県議でなければ、公金詐欺もなかったでしょう。

こういうことはどんな人にも、良く起こりうる事象です。

小説家なら、「だから人生は面白い」というでしよう。

中国の諺にも「人間万事塞翁が馬」というのがあるように、何が幸せか何が不幸かは後になってみないと分からないのです。

つまり、幸せとか不幸せとかは、一般論として定義することが間違いなのです。

幸せとは、その人その人の心の問題なのですが、俗欲に犯された我々は、お金が無いことを不幸だと言い、世間に認められない(タレントや有名人になれない)から不幸だと言ったりしています。

欲望が叶えられないから不幸だと思うのです。

 

算命学を勉強する皆さんに提言したいと思います。

『来年は、自分なりの幸せの定義を見つけてください。』

自分が宇宙を形成する一メンバーとして、自分らしく生きる道を見つけるのです。

 

幸福を売る占い本の著者には悪いのですが、遊びならともかく、本当に自分を見つめたいならば、市販の占い本から卒業し、自前の脳に自然の法則論を刻み付けることをお勧めします。

そして、最低限、不幸にならないように過ごされることを切望します。

自分の生き方は、自分で決めましょう。

2014-12-17 創喜