算命学10分レッスン(983日目)算命学と仏教

算命学10分レッスン(983日目)算命学と仏教

御経に取り入れられた算命学

仏教は紀元前に、インドの釈迦族のゴータマ・シッダルタという人物が、ブッダガヤーの菩提樹の木の下で悟りを開いたのが始まりとされています。

その教えは時代を経るとともに、いろいろな宗派に分かれ、末端での教義は多少ことなってはいるものの、教典によって伝えられています。

仏教の根本理念は、人間が生きるための苦しさをどのように解決すればよいのか、というのがテーマですから、自然の法則をその教義に取り入れざるを得ません。

お経のお題目は、「南無阿弥陀仏」というのが一般的ですが、意味も知らない子供の頃、大人の真似をして、「なんまいだ」とか「なむあみだぶ」などと仏壇の前で手を合わせたりもしました」

しかし、算命学の方向の五行を勉強してみると、このお題目の意味がはっきりと分かるようになりました。

算命学は、その出発が紀元前6000年とも4000年とも言われていますが、仏教の誕生は、最古でも紀元前600年ですから、仏教の教えは算命学の思想を取り入れたものということができます。

算命学では、南は精神の生まれる所としていますが、仏教の経典ではどの宗派も「南無・・・」から始まります。

南には何も無いという意味ですが、その後に続く阿弥陀仏は、阿弥陀様という仏さまのことです。

阿弥陀如来は、アミターバ(無限の光)とかアミターユス(無限の寿命)の漢字訳ですから、南無阿弥陀仏というのは、南の方向には霊魂が生まれていませんよと言っています。

霊魂が生まれていないということは、死も無いと言っているのとおなじですから、そこには永遠の命である阿弥陀さまがいらっしゃるのです。

つまり、この世の中は終わりなく永遠に続いているのであって、現世はそのほんの一部に過ぎず、われわれ人間にとっては仮の宿にしか過ぎないと言っているのです。

それを知り、現世で苦しんでいる人間を助けて下さる方こそ、南を支配されている阿弥陀様だけなのです。

人間は、生もなく死もない全てが阿弥陀様の手中で生かされているのですから、阿弥陀様のところから来て、阿弥陀様のところに帰るのみです。

ということで、阿弥陀様の慈悲を願う教典なのです。

しかし、ある宗派のお題目は、「南無妙法蓮華教」と言っています。

南無は同じですが、下に付けるお題目妙法連華教が少し違います。

「妙」というのは「妙見菩薩」で北斗七星を仏格化した仏さまです。

この妙見菩薩は、日本の神道の神「天祖神(アメノミオヤノ尊)」に比定する研究もあります。

日本は仏教を輸入した当初、仏教を広めるために神仏混合を国家の政策として行ったので、神道の神と仏教の仏さまが入り混じって存在することになりました。

この是非はさておき、妙法連華教に意味を考えてみますと、南無妙に意味が出てきます。

南には何も無いのですが、北(妙)にも何も無いということを言っているのです。

精神が生まれる南も、精神が鎮まる北も無いのですから、生まれることも死ぬことも無いと言っているのです。

あるのは、法蓮華教のみなのです。

南無阿弥陀仏は、永遠の命の中の現世の命ですから、死んだら阿弥陀様のところへ帰るわけですが、「南無妙法蓮華教」は特定の仏さまが人間一人一人を助けるのではなく、「法華経」の教えのみが『唯一絶対』のものであるという考え方に基づいているのです。

法華経の教え(現世の過ごし方、正しく行きなさい=正しく生きる基準は法華経の基準)に従って生きていれば、あなたが行くあの世の世界が決まりますよ、というお題目なのです。

天国か地獄か、あなたが生きている間の努力次第ですと、生も死も無い未来永劫に続く人間の命の現世での生き方を示しているのです。

このように、仏教は宗派が違うとその教義も少しずつ違います。

しかし、その思想が算命学の基本理論である陰陽五行論を基にしている以上、自然の法則を無視できません。

そのため、霊魂が不滅であることを認めた上での教義となっています。

算命学では、輪廻転生の実証理論として、六親法があることでも、算命学が仏教思想の源流にあることがお分かりになると思います。

 

2016-03-07

創喜